ブルバキ学派は、1934年12月(あるいは1935年)にフランスのエコール・ノルマル・シュペリウールで誕生した数学者の集団です。当初は教えているコースに不満を持った若手数学者たちが集まったことがきっかけでした。アンドレ・ヴェイユ、クロード・シュヴァレー、エルブランなど気鋭の数学者たちが中心となり、「ニコラ・ブルバキ」という架空の人物名を筆名として活動を始めました。
この集団の特徴的な点は、50歳定年制を設けていたことです。毎年メンバーの適格審査を行い、進取性が失われたと評価されると「首になる」という厳しい仕組みを採用していました。このシステムにより、ブルバキは「永遠に若々しい数学者」として、常に革新的な思考を維持することができました。
メンバーは10名ほどの定連メンバーを中心に構成され、時代とともに入れ替わりながらも、その方針や性格は一貫して維持されてきました。これは数学集団としては極めて珍しい特性です。彼らが目指したのは、数学全体を「構造」という観点から基礎づけ直すという壮大な計画でした。
ブルバキ学派の最大の功績は、古代ギリシャのユークリッド『原論』に倣った『数学原論』の執筆です。1939年から刊行が始まり、1984年までに40冊以上が出版されました。この大著は、数学を統一的な視点から再構築するという野心的な試みでした。
『数学原論』の内容は以下のような項目から構成されています。
ブルバキの著述スタイルには一貫した特徴があります。「読者への注意」では「この言論は数学をその第1歩から取り扱い、完全な証明をつける。したがってこれを読むには原則的には数学的予備知識はいらない」と述べていますが、実際には高度な数学的推論と抽象能力が必要とされます。
彼らのアプローチは公理的・抽象的で、一般から特殊へと進む方法論を採用しています。また、『数学原論』本文では文献を引用せず、各巻末の「歴史的覚書」にまとめて記すという独自のスタイルを確立しました。これらの歴史的覚書を集めたものが後に『ブルバキ数学史』として出版されることになります。
ブルバキ学派の中核的な概念は「構造」です。彼らは数学全体を「構造」という観点から捉え直すことを目指しました。特に重要視したのが「母構造」と呼ばれる3つの基本構造です。
これらの母構造を基盤として、公理学を導入することにより数学の形式化を進めました。古典的な数学が代数、幾何、解析などの異質な分野の集合として捉えられていたのに対し、ブルバキ学派はこれらをすべて「構造」に従属させようとしたのです。
彼らの基本的な考え方は、第1部として「基礎」に関する6つの本(集合論、代数、一般トポロジー、初等微積分、位相線型空間、積分論)を土台とし、その上に様々な数学分野を構築するというものでした。
ブルバキ学派は「数学の一貫性と統一性」を強く信奉し、数学のすべてを統一的に書き直すことで、その一貫性と統一性を示すことに自己を捧げました。彼らの最終目標は「全定式化と完全厳正」という理想でした。
ブルバキ学派の「構造主義」的アプローチは、数学の枠を超えて様々な学問分野に影響を与えました。特に顕著なのが人類学への影響です。
クロード・レヴィ=ストロースによるムルンギン族の婚姻体系の研究は、構造主義が人類学に応用された代表的な例です。この研究を聞いたブルバキのメンバーであるアンドレ・ヴェイユが、数学の群論を活用して婚姻体系を解明したことは有名なエピソードとなっています。
構造主義は、その後、言語学、精神分析学、文芸批評、生物学など多岐にわたる分野で応用されるようになりました。ロラン・バルト、ジュリア・クリステヴァ、ジャック・ラカン、ミシェル・フーコー、ルイ・アルチュセールなど、人文系の諸分野で多くの思想家がこの発想を受け継ぎました。
特筆すべきは、ブルバキのメンバーであるアンドレ・ヴェイユが言語学者エミール・バンヴェニストからの影響を認めていることです。このように、構造主義は数学と人文科学の間で相互に影響を与え合いながら発展していきました。
ブルバキ学派のアプローチには、その革新性と同時に限界も存在しました。例えば、微積分学に対する彼らの扱いは十分とは言えませんでした。微積分学は「実学として極めて応用価値が高く」、抽象代数学とは異なり「構造数学にはなじまない」側面を持っていたからです。
近世的な微分積分学の形成史には、ニュートン流の「幾何学的ー運動学的ー自然学的伝統」とライプニッツ流の「代数学的ー原子論的ー形而上学的伝統」という二つの流れがありますが、ブルバキの見解では力学や運動学との関係が薄く、また位相論の取り扱いも少ないという特徴がありました。
また、最近の研究では、筋肉の適応に関する研究のように、単一の測定点では現象の全体を捉えきれないという認識が広がっています。これは、ブルバキ学派が追求した「構造」による統一的理解の限界を示唆するものかもしれません。
しかし、こうした限界にもかかわらず、ブルバキ学派の遺産は現代数学に深く根付いています。彼らが提唱した「構造」という概念は、数学の様々な分野を横断する共通言語となり、数学の発展に大きく貢献しました。また、彼らの厳密な公理的アプローチは、数学の基礎づけに関する議論を活性化させ、数学の哲学にも大きな影響を与えました。
ブルバキの『数学原論』は、その難解さゆえに「素人が読める本でない」と評されることもありますが、専門的な思考を持つ学問の徒にとっては、数学の深い理解と哲学的考察を促す貴重な資料となっています。
ブルバキ学派の「構造」を中心とした数学観は、現代の数学教育や研究にも影響を与え続けており、彼らの功績は数学史に永く刻まれることでしょう。
ブルバキの数学観と現代数学への影響に関する詳細な分析が掲載されています
京都大学の論文「ブルバキの数学史観」では、彼らの歴史的視点について詳しく解説されています
名古屋大学のブルバキ研究会のページでは、ブルバキの活動と日本での受容について知ることができます