ベクトル空間とは、加法とスカラー倍という二つの演算に対して「閉じている」集合のことです。数学的に言えば、適切に定義された「ベクトルの和」と「スカラー倍」に対して閉じた集合を指します。
ベクトル空間の基本的な性質として、以下の条件を満たす必要があります。
これらの性質により、ベクトル空間内では自由にベクトルの加算や定数倍の操作を行っても、その結果は必ず同じベクトル空間内に収まります。これがベクトル空間の「閉じている」という性質です。
例えば、実数全体の集合 R や、平面上の点の集合 R² などは、通常の加法とスカラー倍の演算に関してベクトル空間となります。
ベクトル空間を理解する上で重要な概念が「基底」と「次元」です。基底とは、ベクトル空間を「張る」最小限のベクトル集合のことです。
基底の定義は次のようになります。
ベクトル集合 {e₁, e₂, ..., eₙ} がベクトル空間 V の基底であるとは、次の二つの条件を満たすことです。
つまり、任意のベクトル v ∈ V に対して、v = a₁e₁ + a₂e₂ + ... + aₙeₙ と一意に表せるということです。ここで a₁, a₂, ..., aₙ はスカラーです。
ベクトル空間の次元とは、その空間の基底に含まれるベクトルの数です。例えば。
重要なのは、同じベクトル空間に対して異なる基底を選ぶことができますが、基底に含まれるベクトルの数(次元)は常に同じになるという点です。
ベクトル空間の概念を具体的な例で見ていきましょう。最も直感的なのは、ユークリッド空間における幾何学的解釈です。
1次元ベクトル空間(直線):
R¹ = {(x) | x ∈ R}
これは実数直線と同一視できます。基底は1つのベクトル、例えば (1) だけで構成されます。
2次元ベクトル空間(平面):
R² = {(x₁, x₂) | x₁, x₂ ∈ R}
これは通常の平面座標系と同一視できます。標準的な基底は {(1,0), (0,1)} です。
3次元ベクトル空間(立体):
R³ = {(x₁, x₂, x₃) | x₁, x₂, x₃ ∈ R}
これは私たちが住む3次元空間と同一視できます。標準的な基底は {(1,0,0), (0,1,0), (0,0,1)} です。
これらの例では、基底ベクトルは互いに直交しています(直交基底)。しかし、ベクトル空間の基底は必ずしも直交している必要はありません。例えば、平面 R² では {(1,1), (1,-1)} も基底となります。
幾何学的には、n次元ベクトル空間は n個の独立な方向(基底ベクトル)によって特徴づけられる空間と考えることができます。各ベクトルは、これらの基本方向に沿った成分の組み合わせとして表現されます。
ベクトル空間 V の部分集合 W が、それ自体もベクトル空間の公理を満たすとき、W を V の「部分空間」と呼びます。部分空間は、元のベクトル空間の中に存在する「より小さなベクトル空間」と考えることができます。
部分空間の条件は以下の通りです。
R³ の部分空間の例を挙げると。
部分空間の概念により、ベクトル空間には階層構造があることがわかります。n次元ベクトル空間には、0次元から n次元までの様々な次元の部分空間が含まれています。
重要な注意点として、R² は R³ の部分空間ではありません。なぜなら、R² の要素は2つの成分を持つベクトルであり、R³ の要素は3つの成分を持つベクトルだからです。しかし、R³ の xy平面は R³ の2次元部分空間となります。
ベクトル空間の概念は、量子力学においても中心的な役割を果たしています。量子力学では、物理系の状態を「状態ベクトル」として表現し、これらのベクトルが形成する空間を「ヒルベルト空間」と呼びます。これは無限次元のベクトル空間の一種です。
量子力学における重ね合わせの原理は、ベクトル空間の線形性に直接関係しています。二つの可能な状態 |ψ₁⟩ と |ψ₂⟩ があるとき、それらの線形結合 a|ψ₁⟩ + b|ψ₂⟩ も可能な状態となります(ここで a, b は複素数)。
さらに、量子力学の観測過程は、状態ベクトルを特定の基底で表現することに対応します。異なる観測(位置や運動量など)は、異なる基底の選択に対応するのです。
この関係性は、抽象的な数学概念であるベクトル空間が、物理世界の最も基本的な法則を記述するのに不可欠であることを示しています。ベクトル空間の美しさは、その抽象性にもかかわらず(あるいはそれゆえに)、自然界の深い構造を捉えることができる点にあります。
大阪教育大学の線形代数講義資料 - ベクトル空間の基本概念について詳しく解説されています
量子力学とベクトル空間の関係については、以下の参考リンクも有用です。
京都大学OCW - 量子力学とヒルベルト空間についての講義資料